自分にとっての「敵」と「味方」を間違えるな
みなさん、こんにちは。
さて、思考が錯綜しはじめてから1週間。
最初は「趣味を持つ」ために、邪魔な罪悪感の正体を突き止めようとしていた。
でも今は、趣味以前に、自分がどんな人間だったかすっかりわからなくなった。
どうしてこうなったのか、不可解だ。
目的を見失ったので、先週読んだ加藤諦三氏の本についてメモしたい。
この本の何かが引っかかり、読むと脈拍が上がる。
加藤先生は本書で、苛めの構図について、具体例を交えながら丁寧に書かれている。
第6章の
『あなたにとっての「敵」と「味方」を間違えるな』
から、要点だけ抜粋させていただきたい。
立派なことを言う人には、常に注意をしなければならない。
愛のないところで育った人は、人を見分ける能力が無い。
愛を唱える人が愛の人、と錯覚する。
苛められる側は、もともと不幸な人が多い。
惨めな境遇ゆえに、そのような愛を信じたいのである。
「いろいろと立派なお説教」をして苛める人は、相手を諭しているのではなく、
自分の感情をぶつけているに過ぎない。
グジュグジュといつまでも立派なことを言って絡んで苛める人は、相手を選ぶ。
反撃してくる人は苛めない。
運動部の学生でも、会社でも、同じである。
教えてやるという口実の元に苛める。
虐待は、親が自分の憎しみを、子供を苛めることで晴らしている。
子供は親を「いい人」と思わなければ、生きていけない。
こうして育った子供は言葉を信じる。
相手が「愛している」と言うと、愛されていると思う。
相手のしていることを見ていない。
加藤先生が仰っていることが、今の攻撃的思考に関係している気がする。
雲を掴むようで、よくわからない。
今日も、良い1日を。