鬱のカウンセリング、7月

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Photo by James Wheeler on Unsplash

 

みなさん、こんにちは。

今日は、母親問題について書きたい。

 

先月のカウンセリングで、母親と距離をとるようアドバイスを受けていた。

 

そこで母親から頼みごとをされた時、

「妹か弟に頼んでくれないか?」

「実はパニック障害で会社を辞めた、今もカウンセリングへ通ってる」

と伝えた。

 

母親は思い込みが激しく、今回も

「わかるわ!!パソコンって嫌になるわよね、画面を見たら具合悪くなるんでしょ!?」

と決めつけたので、やむなく子供時代の記憶が戻ったことを伝えた。

 

母親は、

「えー?お父さん、殴ったかしら?あなたは、お父さんにかわいがられてた」

と言ったので、記憶の中からひとつ、具体的に伝えた。

 

すると、

「あなたが怒られるたび、『おまえの育て方が悪い!』って、お母さんまで殴られて本当に大変だったのよ!!」

と言い出した。

 

どっちなんだ・・・

 

さらに母親は、

「そんなのおかしいわよ、だって私達、家族じゃないの」

「あなた達を愛してるのに」

「引き受けてくれないの!?じゃあ私は一生、あなたを鬱にした十字架を背負って生きていくわよ!」

と言いだして、今日まで平行線のままだ。

 

1度、母親から届いた手紙には、

「一生、十字架を背負って生きていきます」

「あの件と、あの件を頼みたいんだけど」

「体に気をつけてね、連絡待ってます」

とだけ書かれていた。

 

今日、カウンセラーの先生は

「勝手に十字架背負ってればいいわよ、ほっときなさい」

と言った。

 

私は、白黒はっきりしないと落ち着かない性格で、だから鬱病になったんだと思う。

「まあいいや」って流せなくて、ずーっと考えてしまう。

 

母親のことは、今、グレー。

すごく気になるけど、どうにもならないことを考えない練習をしてる。

 

今日も良い1日を。

去年は鬱病だと思わなかった

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Photo by Valdemaras D. on Unsplash

 

みなさん、こんにちは。

さて、最近「楽しい」という感情が戻ってきた。

今ならわかるけど、去年からずっと、病んでたと思う。

 

会社を辞めたいと思ったのは去年の春だった。

昨年の記憶は、ほとんど職場、それから手術入院した病院だ。

 

自然が好きで、ここ何年も、週末は海か山へでかけていた。

でも温泉に入っても、のどかな田舎道をドライブしてても、思い切って数日旅行しても、パワハラ上司があたまから消えなかった。

 

「いつか見に行こう」と思っていた神代桜を見に行っても、上司のことばかり思い出され、「せっかく見たかった桜なのに綺麗だと思えない、全然楽しくない・・・悔しい」と思った。

 

気がついたら「喜ぶ、嬉しい、楽しい、美味しい」という感情が無くなっていた。

「上司はおかしい、ありえない、間違ってる」って思うシチュエーションを、あたまの中で再現して、どんどん止まらなくなった。

 

秋になると眠れなくなり、過呼吸になった。

翌日に上司とミーティングがある日は、なぜか深夜3時過ぎると、死のうかと思った。

実際、パニック症を発症したのは、上司とのミーティング直前だった。

 

もっと早く精神科へ行けば良かった。

産業医にも受診を勧められていたけど、その時は、自分は正常だと思っていた。

なんともないのに、1回8千円~1万5千の受診料を払うのが惜しく、時間も惜しかった。

 

鬱病は、鬱になってからの期間が長いほど、回復に時間がかかるとカウンセリングで言われた。

もっと早く精神科へ行くか、会社を辞めれば良かったと思う反面、たぶん、それができない性格だから鬱病になった気がする。

 

去年の自分に声をかけることができるとしたら、「自分を知ろう」って言いたい。

 

仕事、昇進、成功、仲間、お金、自己実現、家族、旅行、ぜんぶ大切だと思ってたけど、優先順位がある。

この中には「不安だから、しがみついてる物」も混ざってる。

 

みんなに良く思われなくてもいい、自分にとって何が大切なのか?

そんなことを、過去の自分に言いたい。

 

先月、子供時代の記憶が戻ってから混乱して「アイデンティティが壊れた、心が空っぽになった」と表現したけど、きっと絶望したんだと思う。

絶望して、諦めてから、自分で自分を責めなくなった。

 

鬱病って、こんな流れで回復に向かうのが一般的なんだろうか?

不思議で仕方なくて、だから先が全く読めない。

来年の自分は、どんな毎日を過ごしてるだろうか?

今の私に、なんて言うだろうか。

 

まずは働けるようになりたい。

今日も良い1日を。

 

 

 

鬱病、電車に乗れるようになった

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Photo by Wynand van Poortvliet on Unsplash

 

みなさん、こんにちは。

さて、1月にパニック症になってから、近所の買い物も、必ず薬を持ち歩いていた。

発作が起きると、なぜか「自分は死んでしまう!」と思い込み、恐怖で発狂しそうになり、建物の中にいられず、衝動的にベランダから飛び降りそうになる。

発作を起こしたのは1度きりだけど、今も「またあの症状が出たら、死んでもおかしくない」と本気で思ってる。


支障といえば、通勤に使っていた路線だけ、電車に乗れなくなっていた。

その路線特有の列車カラーリングや、沿線の駅名などが目に入ると、不安で落ち着かなくなり、汗が噴き出した。

その時点でホームから立ち去らないと、ぐらぐら眩暈がして呼吸困難になった。

 

5月末にチャレンジした時、10分間だけ乗れたけど、心拍数が上がって興奮状態になった。

やたら攻撃的な思考に陥り、周囲のサラリーマンが全員、私に害をなそうとしているように見えて混乱した。

なので、帰りは、別路線を使った。


そして今日、2つチャレンジした。

・薬を家に置いて外出すること
・乗れなかった路線を使うこと

悪化したらタクシーを呼ぶつもりだったけど、何とか往復60分、電車に乗れた。

 

だけど「今、薬持ってないんだよな・・・」と意識すると、不安で落ち着かなくなった。

そのままパニック症状へ移行しそうな兆候を感じたので、他のことを考えるために、スマホに集中した。

意識して、気を紛らわせ続けないといけなかった。

 

帰りは、薬を持ってないのを忘れていた。

外出が楽しかったせいもあり、別のことであたまがいっぱいだった。

 

 
最近、「楽しい!」という感情が戻ってきた。

電車に乗れるようになったのは、嬉しいというより、複雑な気持ちだ。

次も普通に乗れるか、自信が無い。

心の病は難しい、回復に波があるから、ぬかよろこびしたくない。

「電車に乗る」という普通のことが出来なくなってしまう、心の病の怖さも感じた。

 

鬱病の原因になった職場のことは考えたくない。

でもいつか平常心で振り返れる時が来たら、考証したいと思う。

 

今日も良い1日を。

目を逸らしたくない、祖母のむごい戦争

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那覇」Thanks to ばんない堂

 

みなさん、こんにちは。

さて、10年前に沖縄の小学校で見て、驚いたポスターがある。

それは沖縄戦のモノクロ写真で、日本兵の遺体が大きく写っていた。

東京の小学校なら、「子供がショックを受ける」と保護者からクレームが寄せられそうだと思った。


祖母も、戦場のむごたらしい描写を、そのまま孫たちに聞かせた。


あまりに残酷で「もう聞きたくない!見たくない!」って思う時もあるけど、その生々しさによるショックが、今、私に戦争を考えさせていると思う。

私も「命が失われた」「亡くなった」という「ぼかし表現」を避けたくて、「死んだ」と書いてる。

 

学徒隊の子供達をはじめ、故郷を守りたい純粋な想いを利用された人達。

たくさんの人達が、戦場を逃げまどい、最後は誰にも守ってもらえず死んでいった。

 

真面目で善良な人が、その優しさを利用されて、命を軽く扱われるのが、たまらなく苦しい。

これからも忘れずに、考え続けていきたい。

沖縄戦で犠牲となった、すべての人に、哀悼の意を表したい。


大人になってから、祖母に聞いてみたことがある。

「戦争で、たくさんの人の遺体が積み上げられてた場所が観光地になって、内地(本島)から来た観光客が、そんなことも知らずに笑ってはしゃいでるよね。おばあは、どう思ってるの?」と。

 

祖母は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、こう答えた。

「みなさん沖縄にいらしてくださるのは嬉しいさ。

あんなに悲しいことがあった場所で、若い人たちの笑い声がするのは、とても嬉しい」

 

・・・ひととおり沖縄戦のことを書き終えたら、美味しいお店や、魚がたくさん泳いでる場所も書こうと思う。

沖縄に遊びに来てくれた人が、たくさん楽しい思い出を作ってくれたら、平和で、幸せで、嬉しい。

 

今日も良い1日を。

沖縄戦、考えてこなかった視点

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石垣島」Thanks to ばんない堂


 

みなさん、こんにちは。

さて、連日、沖縄戦の話が続いてる。

 

自分でも1週間以上、書くと思ってなかった。

戦争には、それだけ多くの要素があって複雑だと感じている。

沖縄戦の同じ局面でも、それぞれの立場で、違った視点になる。

子供の視点、大人の視点。
兵隊の視点、非戦闘員の視点。
日本人、アメリカ人、韓国人の視点。

 

ここまでは、日本軍・米軍によって悲惨な経験をした人達のことを書いてきた。

 

「兵隊さん達は、沖縄を守るため、日本中から来てくれた。

それなのに大勢亡くなって、故郷へ帰れず、遺骨すら家族の元へ戻してあげられなくて気の毒さ。」

これは、祖母の言葉だ。

 

今まで、兵隊達の立場を考えたことがなかった。

でも、自分のアイデンティティが壊れてから、私は、この世には善悪の区別なんて無いって思うようになった。

 

兵隊達も「被害者」なんだ。

これから、兵隊視点も考えてみたい。

 

沖縄戦に限らない話だけど、難しいと感じてるのは、戦記は文献によって数値や見解に差異があることだ。

今回、できるだけ「史実」に忠実に書くため、書籍や資料でも読んだことがある出来事を取り上げてきた。

でも、ウィキペディアも含め、細部が異なる情報が存在するのだ。

 

たとえば久米島事件では、生きたまま家に火を放ったという証言と、死後に火を放ったという証言がある。

シムクガマでは「全員、生存した」というのが通説だが、「最初に投げ入れられた手榴弾で小学生が亡くなった」という記録もある。

 

そもそも死者数だって、「戸籍」が沖縄戦で焼失したため、正確に把握できていない。

特に南部など、村がまるごと壊滅して、何世帯何人が暮らしてて、どのように死んだのか、もう誰にもわからなくなってしまった地域もある。

 

戦争中と戦後の過酷な状況下で生死をさまよい、記憶が混乱している可能性もある。

何らかの利益のために、証言を曲げている可能性もある。

このような状況により、数値や見解に差異が生じている。

 

書いていて、息苦しくなる話ばかりだ。

でも、祖母の証言をブログに書けて良かったと思ってる。

祖母は、子供の私に、遺体の克明な描写を交え、恐ろしい戦争体験を聞かせた。

そのたびに「戦争は怖いって、みんなに言ってちょうだいね、お願いよ」と言っていたから。

 

今日も良い1日を。

集団自決、生死を分ける価値観

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宮古島 七光湾」Thanks to ばんない堂

 

みなさん、こんにちは。
今日は、生死をわけた「価値観」について、悲しい話を書きたい。


読谷村の波平地区には、チビチリガマシムクガマという鍾乳洞(ガマ)がある。


チビチリガマでは集団自決で多く命が失われた。

シムクガマでは全員、生存して投降した。

 

この2つのガマは600メートルしか離れていない。

同日、ほぼ同時刻に、米兵が到達している。


命を左右したのは何だったのか?

それぞれのガマで何が起きていたのか?

 
1945年4月1日

米軍が沖縄本島に上陸し、読谷村を爆撃、破壊した。

 

午前9時半(遅くても10時頃)

米軍がそれぞれのガマへ到着して、米兵が「デテコイ」「コロサナイ」と呼びかけた。

ガマの中にいる村民はパニックになった。

そして数名の村民が、竹槍を手に、米兵へ突撃しようとした。

 

・・・ここまでの状況は一緒だった。

ここから、それぞれのガマは違う分岐を辿っていく。

 

チビチリガマ

チビチリガマへ避難したのは139人だった。

数人の村民が、竹槍を持ってガマから飛び出し、米兵へ突撃した。

が、米兵に機関銃や手榴弾撃で攻撃され、先頭にいた村民2人が死んだ。

 

米兵は「戦争は終わりました。外には食べ物も水もあります」といった内容のビラと、チョコレート、缶詰、タバコを置いて去って行った。

しかし「だまされるな!」という声が飛び、誰もビラを信じず、食べ物も口にしなかった。


4月2日 午前8時頃

再び米兵が来て、ガマから出るよう呼びかけた。

日本兵の「出て行けば殺される」という言葉を信じ、ガマを出る者はいなかった。

日本兵は、積み上げた布団に火を付けた。

炎と煙がガマ内に充満して、家族が殺しあい、集団自決した。

煙で苦しむより、米兵に撃たれて楽に死のうと考えた者は、ガマの外に出た。

結果、54人が助かり、都屋の収容所に移送された。

 

以下、生存者の証言より抜粋させていただきたい。

「ガマでは、「ごめんね、ごめんね」と子どもに布団をかぶせ火を付ける親、子に馬乗りになり何度も何度も包丁を突き立てる親を見た。

「あがーよー、あがーよー(痛いよ、痛いよ)」と、悲鳴や子どもの泣き声が聞こえても、気に掛ける余裕はない。

もうもうと立ちこめる煙の中を、「とにかく外へ、外へ」と進んだ。」

 

 

シムクガマ

シムクガマへ避難したのは1000人だった。

13〜15歳までの少年で構成されてる警防団が、竹槍を持ってガマから飛び出し、米兵へ立ち向かおうとした。

この時、移民先のハワイから沖縄に帰ってきた比嘉平治さんと比嘉平三さんが、少年達を止めた。

比嘉さん達2人は、軍国主義下の皇民化教育に洗脳されていなかった。

ガマにいる住民1000人を説得して、米軍指揮官と交渉した。

「中には民間人しかいない、攻撃しないで欲しい」と。

こうして全員の命が助かった。

 

 

シムクガマは「生」を選んだ。

元ハワイ移民の「だいじょうぶ、アメリカ兵は民間人を殺したりはしないから」という判断を信じた。

 

チビチリガマは「死」を選んだ。

中国戦線経験者だった元兵士や元従軍看護婦の「捕虜になれば、死ぬより恐ろしい目にあう」という判断を信じた。

 

 

シムクガマの生存者は「紙一重だった、自分たちが死んでもおかしくなかった」と振り返っている。

生存者の中には、自分だけが生き残ってしまったことを悔やみ、何度も自殺を試みた人達がいる。

 

比嘉さん達は、戦後、亡くなるまで、シムクガマで起きたことを殆ど話さなかった。

同じ集落のチビチリガマで、多くの村民が亡くなったことをとても気にしていたそうだ。

 

・・・何もかもが、やりきれない。

現代に生きる私が、結果論で「こうすれば良かったのに」なんて言えない。

その場にいたら、死へ誘導する集団に反論できただろうか?

とても自信がない。

 

軍国主義教育という、戦前の間違った教育があった。

皇民化教育は、住民にも「命がけで国を守れ」という考えを叩き込んだ。

日本の統治内に入ったばかりだった沖縄県民は、日本人として認めてもらおうと、忠誠心を示そうとした。

 

チビチリガマの犠牲者の半数は、子供だ。

いつも立場の弱い者が犠牲になる。

どうしたらこんな悲劇を終わらせることができるのかな。

 

答えが出るかわからないけど、考えることを放棄しないって決めた。

「仕方ない」って思ったらずっとそのポジションだ、私は何か変えてみたい。

 

比嘉さん達は、米軍が上陸する前から、

「あんな大きな国に戦争を仕掛けてどうするんだ」と、親しい人に話していたらしい。

 

・教育
・情報(知識を更新すること)
・対話

現時点で、私は、この3つが大切だと思った。

 

今日も良い1日を。

戦後、悪ふざけで殺された子供達

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Photo by Lars Zhang on Unsplash

 

みなさん、こんにちは。

さて、今日は戦後、沖縄で殺された子供達について書きたい。

 

日本の終戦日は1945年8月になっている。

この後も、アメリカ統治下の沖縄では、米兵による射殺、刺殺、撲殺、強姦が続いた。

 

忘れられない話がある。

終戦の翌年、6月。

国頭村の海岸で川蟹をとっていた9歳と14歳の少年がいた。

そこへ米軍の偵察機が急降下して、9歳の少年は飛行機の車輪で頭を砕かれ即死した。

14歳の少年が抱え起こそうとした時、再び偵察機が低空で近づいてきたため、ススキ原に逃げこみ命からがら部落へ帰った。

米軍による、意図的な轢殺だった。

 

このような米軍機やトラックによる轢殺は、たくさんあった。

 

母親が子どもを背負って野原でヨモギを摘んでいた。
米兵4人がジープで来て、いきなり車のなかに引きずりこんだ。
ジープが猛スピードで曲がったとき、親子は振り落とされ、背中の子は即死した。

米兵がジープからチューインガムやビスケットを路上に投げ、子供達が奪いあって拾うのを笑っていた。
そこへ別のジープが疾走してきた。
子供達がいることを知りながら速度を落とさず、跳ね飛ばされた11歳の女の子が死んだ。

少年が、自転車の後ろにいとこを乗せて走っていた。
反対車線から疾走してきた米軍のジープが、道を横切ってわざと自転車に突入した。
16歳の安昇君は即死、8歳の安一君は病院で死亡した。

 

みんな、悪ふざけで、殺された。


被害者は、特に子供が多い。

いつだって弱いものが踏みにじられる、命を軽く扱われる。

 

ひたむきに生きている人が虐げられるのは、たまらなく苦しい。

どうしたら弱い者を守れるのか?

 

まず「仕方ない」をやめたい。

「関係ないから」
「何かできるわけじゃないから」
「TVがこう言ってたから」
「偉い人がこう言ってるんだから」

・・・ってゆう、無関心と同調圧力をやめたい。


他にどうしたらいいのかわからないけど、これから考えていきたいと思う。

 

今日も、良い1日を。