世界がひっくり返っても黙らないために
みなさん、こんにちは。
さて、今日は沖縄の戦後について書きたい。
簡単に、私達の生活は一変する。
簡単に、人の価値観も変わる。
戦争は人を狂わせる。
「米兵も、友軍(日本兵)も、一般人も、誰も信じられなかった」と、祖母は言っていた。
収容所で盗みが横行して、わずかな食料を盗られれば死に直結した。
沖縄戦で残酷な戦場を生き延びた住民達は、米兵の「捕虜」として扱われた。
劣悪な衛生環境で、たくさん死んでいった。
たとえば浦添村民の収容所だけでも、312人が亡くなっている。
食糧は乏しく、負傷者は殆ど手当てを受けられなかった。
重病人以外は、農作業や工事など、過酷な労働を強いられた。
私が幼い頃、祖母はこう言っていた。
「アメリカは優しかったさ、自分の家族の写真を見せたり、チョコレートをくれた」
「友軍は怖かったよ、食料も牛も取り上げられた。壕に避難してたら、後からやってきて、『お前たちを守ってやってるんだから出ていけ』と言って、砲弾が降る中へ追い出された。スパイだって言われて日本刀で斬り殺されそうになった。」
アメリカ世(あめりかゆー、アメリカ統治時代)が終わってから10年経っていなかった。
その祖母が、高齢になってから違うことを言うようになった。
「収容所では、いつも顔に泥を塗って、髪をボサボサにしてたよ。米兵が来たら、ガンガンガンって鐘が鳴って、女はみんな逃げたよ。捕まったら強姦されて、殺されて、怖かったさ」
「食べ物がなくてよ、夜、畑に盗みに行ったさ。缶詰なんか手に入ると、山中に隠れてる日本の兵隊さんのために、茂みに埋めてさ。見つかったらアメリカに撃ち殺されるから本当に怖かったよ。」
祖母は終戦当時、29歳だった。
9歳と5歳の子供を連れて戦場を逃げまどい、収容所生活を生き抜いた。
アメリカの統治下では「アメリカは優しかった、日本兵は怖かった」と言った。
そして平成が終わる頃、やっと、アメリカの蛮行を話し始めた。
世界は、簡単にひっくり返る。
時の権力者サイドを悪く言うと、酷い目にあうから、言えない。
言いたいことを言えない世界は、怖い。
命が脅かされる。
言論統制に至る前に、必ず段階がある。
日頃の同調圧力、洗脳、忖度。
どうしたら考えを放棄せず、楽な方へ逃げず、自分の考えを貫けるか?
その答えが知りたい、これから考えていきたい。
今日も、良い1日を。
真面目で純粋だから大人に利用された少年兵
みなさん、こんにちは。
さて、今日は沖縄戦の少年兵について書きたい。
下記は、米軍の尋問に「18歳と20歳」と答える少年兵の写真、あまりに幼い。
支給された軍服が大きく、裾や袖をまくっている。
どうして子供達が戦ったのか?
沖縄だけ陸軍省令が変更され、
「14歳以上で、かつ自らの志願であること」と招集年齢が下げられた。
ある日突然、子供達は役場前に集められ、
「これから軍の指揮に従ってもらう、今から出発する」と告げられた。
母親達が「どこへ連れて行くんですか」と聞いても、「それは教えられない」と、行き先も知らされなかった。
沖縄の中学生達は、約1200人、戦死した。
「アメリカ軍の銃は、威力が弱いから軍服すら貫通しない」
「沖縄は君たちの故郷だから、故郷を守る義務がある」
などと上官に言われ、純真で従順だった中学生達は、大人の兵士よりも先に突撃させられた。
小さい体に10kgの爆弾を背負い戦車へ体当たりしたけど、ほとんどの子供が戦車まで辿りつけず、あっけなく射殺された。
実際に、祖母も目撃している。
苛烈な訓練、上官による激しい暴力、食物も無い。
「死んだら靖国神社へ送ってやるから喜べ」と洗脳され、本土決戦までの〝時間稼ぎ〟で、命を使い捨てされた。
「真面目で純粋」というのは、良い言葉に聞こえる。
だけど、そのスタンスで生きてきて、東京の会社で自殺も考えるほど追いつめられた私は、こう思う。
権力者の言うことを盲目的に信じるのは危険だ。
何が「正解」か、自分で考える力がなければ、従わせられて踏みにじられる。
広く情報を集め、自分にとっての「正解」を更新していく力が必要だと思う。
今の日本社会は、その考える力を奪っている。
自分の気持とかけ離れてても、周囲と足並みを揃えて、制度に依存してしまう。
その歪みは、制度や誰かを裁くと一時的に解消するけど、根っこの怒りが消えないからキリがない。
14歳と言えば中学2年生、部活帰りにアイスを食べてる年齢だ。
今も、世界には兵士にされてる子供達がいる。
子供の小さな手で扱える武器を作っている大人達がいる。
今日も良い1日を。
グアムから帰郷した遺品写真
みなさん、こんにちは。
今日は、沖縄の神社で撮影された1枚の写真について書きたい。
偶然この写真に遭遇したのは、2016年、グアム旅行の際に行った「グアム太平洋戦争博物館」だった。
そこには太平洋戦争で使用された武器や、日本兵、米兵の遺品が展示されている。
庭には戦闘機や戦車の展示もある。
そして館内の写真パネルの中に、自分の故郷の写真を見つけた。
自分は、この神社の隣にある病院で生まれた。
だから、この写真がとても気になった。
この人達は誰なんだろう?
そこで、この神社の近くにある名護図書館に写真を掲示してもらい、名護市広報の「市史だより」で情報提供を呼びかけていただいた。
名護図書館と名護市文化課市史編さん係の方達が調査してくださった内容をメモする。
① 沖縄県立第三中学校、7期生の可能性が高い
昭和14年3月卒業 ※三中は昭和3年4月開校
② 校章と帽子の線がはっきりわかれば断定できる
三中の帽子の線は3本
※拡大したがはっきりとしない
③ 大兼久出身(護佐喜宮一帯)の三中卒業生は、毎年、護佐喜宮で卒業記念写真を撮影した
※5期後輩の情報
④県立第三中学校生だとしたら、7期卒業生は2020年現在96、4歳になる
⑤三中を受け継いでいる名護高校を訪問し、教頭先生にお尋ねしたが、この写真は初めてご覧になったとのこと
⑥三中7期生の名簿を入手したが、残念ながら、ご健在の方は見つからなかった
⑦ご健在の三中卒業生の方たち(80代)に調査したが、わからなかった
・・・結局、これ以上わからなかった。
この写真をグアムまで持ってきた人は、あの戦争を生き延びたのだろうか?
彼らは終戦当時、20、1歳だったはずだ。
無事に家族の元へ帰っていてほしい。
でも・・・この年代は、突出して死者が多かった。
明日また理由を書きたい。
図書館や名護市文化課の方達のご尽力で、写真だけ、故郷へ帰れた。
心から感謝している。
今日も、良い1日を。
島民を虐殺して「悪いことしてない」、久米島事件
みなさん、こんにちは。
さて、昨日は沖縄戦について、実際は9月まで戦闘が続いてたことを書いた。
6/23「慰霊の日」以降に、日本軍が民間人29人を虐殺した事件があった。
命令した日本海軍の鹿山正海軍兵曹長は、戦後「ワシは悪いことをしたと考えていないから、良心の呵責もない」と語っている。
この久米島守備隊住民虐殺事件について、考えてみたい。
時代、場所、思想、立場に左右されない「絶対正義」って、あるんだろうか?
事件の概要と、鹿山の訴える正当性についてメモする。
1945年6月27日、久米島に上陸した米軍は、戦車で具志川村に進攻した。
島の住民たちは山奥へと逃げまわった。
久米島郵便局の職員、安里正次郎さんは、自宅から避難壕に逃げる途中で米軍につかまり、山中に潜んでる日本軍へ、降伏勧告状を持って行けと命令された。
安里さんは久米島守備隊トップ、鹿山正(事件当時32歳)を訪れ、事情を説明した。
ところが鹿山は、安里さんを「スパイ」と決めつけ、銃殺した。
当時、スパイだと噂されると、日本軍に家族全員殺された。
安里さんの妻カネさんは、親類に迷惑をかけまいとして逃げまわり、一週間後に山田川へ入水自殺した。
そのショックでカネさんの母親も寝込んでしまい、まもなく亡くなった。
安里さん夫婦は、スパイなんて考えられない、親切ないい人達だったという島民達の証言がある。
このあと鹿山は、区長の小橋川友晃さんと、区警防団長の糸数盛保さんの2家族9人を処刑する。証言によると、
「宮城さんの家に集められた九人は、手足を針金で縛られ、目隠しされて立たされ『ひとりひとり殺せよ』と命令され、銃剣で次々刺したのです。
一突きで死ななかったので、のたうちまわっている九人を何度も刺して殺し、八坪そこそこの住宅は血の海となり、全員が息絶えた処、火をつけて引き上げていったのです」
家ごと焼き払われた死体は、いずれも黒こげでだれがだれだかまるで判別不能の有り様でした。
鹿山隊は、投降する9/7までのあいだに、乳飲み子も含め、島民29人を処刑した。
また鹿山は、自分の部下3人も、命令に服従しなかったとして処刑している。
沖縄本土復帰を控えた1972年、鹿山は雑誌「サンデー毎日」の取材で、自分の正当性を主張した。
「少しも弁明はしません。私は日本軍人として、最高指揮官として、当時の処置に間違いがあったとは、ぜんぜん思っていないからです。
それが現在になって、法的に、人道的に悪いといわれても、それは時代の流れとして仕方がない。
いまは、戦争も罪悪視する平和時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていないから、良心の呵責もない。
ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ。」
「スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先きに、島民にやられてしまうということだったんだ。
なにしろ、ワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね、島民が向こうがわに行ってしまっては、ひとたまりもない。
だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するために、ワシはやったのです。」
むごたらしい事件だ。
何の罪もない島民を虐殺したことは許せない。
だけど、この鹿山だけを悪だと言い切れるか?
この答えが出なくて、ずっと考えている。
鹿山隊は米軍上陸前から、「労務提供」という名目で島民をこき使い、食糧を強制的に徴発していた。
でも沖縄戦で、住民を迫害して、戦闘に参加させ、死を強いたのは、鹿山隊だけじゃなかった。
祖母は、良い兵隊さんも悪い兵隊さんもいたと言ってた。
友軍(日本兵)にも、アメリカ兵にも。
善悪って、一体なんだろう?
国や時代が変われば、善悪の価値観も変わる。
誰かの善は、誰かにとっての悪で、
誰かの悪は、誰かにとっての善だ。
やるせない。
たぶん、この世界には「善悪の別」も、「正義」もないんだ。
戦争を、なくしたい。
私は、子供の頃から親に殴られて、言いたいことが言えないまま大人になった。
社会に出てからも、いいように利用されて、威圧的な人のサンドバッグにされてた。
もう嫌だ。
これからは、理不尽なことが起きてたら、声をあげたい。
何かがおかしいのに、それを見なかったことにして生きていくのは、もう気持ち悪い。
仕方がないって思ったら、ずっとそのポジションのままだから、自分の居心地よさのために、声をあげたい。
今日も良い1日を。
6/23慰霊の日、沖縄の祖母がみた戦場
みなさん、こんにちは。
さて、6月23日は慰霊の日だったので、沖縄戦について書きたかった。
1945年6月23日。
太平洋戦争末期、沖縄での組織的な戦闘が終結した。
18万人、県民の4人に1人が死んだ。
上越市、岸和田市、沼津市が人口18万人のなので、そこが全滅する規模だ。
沖縄県は、6月23日を記念日(休日)に制定していて、「慰霊祭」や「平和行進」に参加する家庭もある。
「慰霊の日」の前日は、給食が芋1本と簡素な総菜だったのを覚えてる。
苦しかった沖縄戦を振り返るためだ。
実際は、6月23日以降も戦闘が続いた。
8月15日(終戦記念日)
天皇の「終戦の詔書」がラジオから流れた後も、一部の部隊は洞窟陣地や山中に立てこもって反撃の機会をうかがった。
9月7日
現在の嘉手納基地内で、南西諸島の日本軍代表が降伏文書に署名して、ようやく局地的な戦闘が終結した。
どうして9月まで日本軍は戦い続けたのか?
慰霊の日は、沖縄の陸軍司令官、牛島満が自決した日だ。
その牛島満が、自決直前に『最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし』と命令したから、以降もゲリラ戦が展開された。
日本軍が住民の服を着て偽装することがあったので、兵隊と非戦闘員の見分けがつかなくなり、米軍の無差別攻撃で民間人に大きな犠牲を出した。
あのとき何が起きていたのか、祖母の実体験を書きたい。
①日本兵に殺されかけた
「子供が泣くと敵に見つかるから、子供を殺すか、豪から出て行け」と言われ、艦砲射撃が撃ち込まれるなか、外へ追い出された。
また、ある時は「味方が全滅した方角から来たおまえたちは敵のスパイだ」と言われ、日本刀で斬り殺されそうになった。
6歳から横浜へ奉公へ出ていた祖母は標準語を話せたため、ぎりぎり命が助かった。
②中学生たちが、手榴弾を持って戦車の下へ突撃させられた
鉄血勤皇隊は、学徒動員された14~16歳の少年兵部隊。
日本軍の指揮下にあり、本隊の軍人よりも敵前に立たされた。
夜、豪の中で、この中学生たちが
「明日はいよいよ手榴弾を持って、敵の戦車の下に飛び込まなければいけない」
「お母さんに会いたい」
「お腹すいた、おにぎりが食べたい」と、声を殺して泣いていた。
翌日、祖母が艦砲射撃の中を逃げまどっていたら、その子達が手足ばらばらになって死んでいる場所に出くわした。
その足の踏み場もない死体の山の、中学生達の顔を踏みつけて、子供2人の手を引いて必死で山へ逃げた。
艦砲射撃は、砲弾が炸裂すると鋭利な金属片が飛び散り、人間を切り刻む兵器だ。
背負った赤ちゃんの首が無いのに気づかないまま必死で逃げまどう若い母親の話とか、惨たらしい話ばかり。
地獄だ。
沖縄の人達は、そんな地獄を生き延びた。
戦争を仕掛ける張本人達は決して戦場に行かない。
戦場にいるのは、敵も味方も、家族や故郷を想う普通の人達で・・・
戦争、なくしたいな・・・
今日も良い1日を。
死にざま、働き方、シャンバラ理論
みなさん、こんにちは。
さて、6月に住民税決定通知書が届いた。
大きな金額、無職なのにどうやって払おうか・・・
やはり7月から、どうしても働かなければいけない。
求人を探すと、後ろ向きな気持ちになる。
「パニック症が再発すると困るから、自転車で行ける距離じゃないと」
「このポジションは人間関係しんどそう」
「接客業だとクレーマーに遭遇して大変そう」
これでは・・・「嫌な目にあわず、楽して働きたい」って言ってるのと同じだ。
家から出て、数分歩いただけで、何人も働いてる人を見かける。
梅雨の、蒸すような匂いのゴミ捨て場を掃除してくれる管理人がいる。
暑い中、埃まみれで、工事している人達がいる。
日本語じゃない母国語で、覚えるのは大変だろうに、コンビニの多様なサービスをこなす店員達がいる。
自分が情けない。
働くのは好きだった。
でも今は怖い。
「新ベスのブログ」に、ちょっと考えてみたい記事を見つけたので、2つ引用させていただきたい。
gaia-shamballa.xyz
Q.
死ぬ瞬間の周波数が高いと、次の人生が有利になるということですが。
何が有利になるのでしょう?(中略)
A.
「魂は天命がある」というスタンスで言っています。
それは大いなる自己に出会い、己を知り、己に向かい、周りから学び、周りに助けられ、そして周りを育てる人生がある。
それを嫌だと思う人もいるかもしれないが、少なくとも学ぶ学校に行けて、日々勉学に没頭しても困らない生活があり、何より自分を応援してくれる家族や仲間がいる。
そんな生活は今の皆さんの生活であり、現在戦争をしている人間にはとても想像もできないことなのです。
まして銃弾が飛び交う中で趣味を持てとは、私は言えない。
魂の叫びを聞きいれられる環境を生かすも殺すもみなさん次第だが、それでもその環境はあなたに与えられた幸せなのです。
これを有利不利で振り分けないで何と言えばいいのでしょうか?
勿論、戦場でも天命はある。
しかし、やはり家族が殺されて本当に自分の天命だけで生きていけるかというとそれはできない。
だから、皆さんには責任があると申し上げているのです。
死にざまを見せていただきたい。
gaia-shamballa.xyz
Q.
頑張り屋が報われるようなカラクリ(法則?)はないですか?
A.
簡単です、あなたに合ったところで働くことです。(中略)
報われるというのは、その頑張りを評価できる上司や仕事場であること。(中略)
魂にあった仕事と生活をすると、おのずと同じ魂同士で、評価が正当に下されます。
引用元:新ベスのブログ
魂にあった仕事と生活。
死にざま。
死ぬ時、自分は何を思うんだろう。
自分はもう40代半ばで若くない。
体力は、無理がきかない。
でも、
「人生の中で本当にやりたかったことやってみろよ!」
と言われれば、まだ何か挑戦できる。
今、やりがいのある仕事に就いてる人を心から羨ましく思う。
16歳~75歳を働く期間と仮定すると、
マラソンで、皆は折り返し地点を走っているのに、自分は今スタート地点にいる。
それだけで心が折れそうだ。
どこまで走れるかわからないけど、景色を変えてみたい。
今日も、良い1日を。
正義も正しさも、この世界にはなかった
みなさん、こんにちは。
さて今日も、這い上がれなくてもがいてるダークサイドについて書きたい。
子供時代の記憶が戻ったことでアイデンティティが崩壊して、
自分が空っぽになったと思ったのに、
まだまだ思考の中に、無意識の欺瞞が混ざっていた。
底なし沼みたいだ、混乱してから1か月以上になる、長い・・・
言葉を発することが怖くなり、ここ1週間はSNSをシャットアウトしていた。
そのあいだ、答えを探すように、戦国時代や幕末の小説を読みまくった。
何が善で、何が悪か、見分けがつかない乱世で、
歴史上の人物達は、自分の信念を貫こうとする。
完全な悪人も、完全な善人も、たぶんいなくて。
正義なんて、どこにもなくて。
でも、それぞれの「義」を掲げて、ぶつかって、今の平和な日本を築いてきた。
人の数だけ「義」があるんだ・・・昔から歴史が好きだけど、こんな風に思ったのは初めてだ。
やっと1つ、新しい価値観が、空っぽの箱に入った気がした。
「アドラー心理学サロン」は、読者の日常的な悩みに、アドラー心理学を用いて答えるスタイルの人気ブログだ。
下記、引用させていただきたい。
正義の反対は悪ではなく他人の正義 (他人の正義はスルーするしかない)
他人の正義は思い切りスルーして、自分の人生の目的を追求することに専念しましょう。
引用元:「アドラー心理学サロン」
もうタイトルのまんま、その通りだと思った。
ずっと、「常に正しい言動をしなければいけない」と思って生きてきた。
でも自分は、全然、正しくなかったんだな・・・
呼吸が楽になった。
10人が10人から「あなたは正しい」って言われなくても、いいんだ。
これからは「アイツが悪い」じゃなくて、「アイツにはアイツの義があるんだろう」って思うことにする。
今日も良い1日を!