集団自決、生死を分ける価値観
みなさん、こんにちは。
今日は、生死をわけた「価値観」について、悲しい話を書きたい。
読谷村の波平地区には、チビチリガマとシムクガマという鍾乳洞(ガマ)がある。
チビチリガマでは集団自決で多く命が失われた。
シムクガマでは全員、生存して投降した。
この2つのガマは600メートルしか離れていない。
同日、ほぼ同時刻に、米兵が到達している。
命を左右したのは何だったのか?
それぞれのガマで何が起きていたのか?
1945年4月1日
午前9時半(遅くても10時頃)
米軍がそれぞれのガマへ到着して、米兵が「デテコイ」「コロサナイ」と呼びかけた。
ガマの中にいる村民はパニックになった。
そして数名の村民が、竹槍を手に、米兵へ突撃しようとした。
・・・ここまでの状況は一緒だった。
ここから、それぞれのガマは違う分岐を辿っていく。
チビチリガマへ避難したのは139人だった。
数人の村民が、竹槍を持ってガマから飛び出し、米兵へ突撃した。
が、米兵に機関銃や手榴弾撃で攻撃され、先頭にいた村民2人が死んだ。
米兵は「戦争は終わりました。外には食べ物も水もあります」といった内容のビラと、チョコレート、缶詰、タバコを置いて去って行った。
しかし「だまされるな!」という声が飛び、誰もビラを信じず、食べ物も口にしなかった。
4月2日 午前8時頃
再び米兵が来て、ガマから出るよう呼びかけた。
元日本兵の「出て行けば殺される」という言葉を信じ、ガマを出る者はいなかった。
元日本兵は、積み上げた布団に火を付けた。
炎と煙がガマ内に充満して、家族が殺しあい、集団自決した。
煙で苦しむより、米兵に撃たれて楽に死のうと考えた者は、ガマの外に出た。
結果、54人が助かり、都屋の収容所に移送された。
以下、生存者の証言より抜粋させていただきたい。
「ガマでは、「ごめんね、ごめんね」と子どもに布団をかぶせ火を付ける親、子に馬乗りになり何度も何度も包丁を突き立てる親を見た。
「あがーよー、あがーよー(痛いよ、痛いよ)」と、悲鳴や子どもの泣き声が聞こえても、気に掛ける余裕はない。
もうもうと立ちこめる煙の中を、「とにかく外へ、外へ」と進んだ。」
シムクガマ
シムクガマへ避難したのは1000人だった。
13〜15歳までの少年で構成されてる警防団が、竹槍を持ってガマから飛び出し、米兵へ立ち向かおうとした。
この時、移民先のハワイから沖縄に帰ってきた比嘉平治さんと比嘉平三さんが、少年達を止めた。
比嘉さん達2人は、軍国主義下の皇民化教育に洗脳されていなかった。
ガマにいる住民1000人を説得して、米軍指揮官と交渉した。
「中には民間人しかいない、攻撃しないで欲しい」と。
こうして全員の命が助かった。
シムクガマは「生」を選んだ。
元ハワイ移民の「だいじょうぶ、アメリカ兵は民間人を殺したりはしないから」という判断を信じた。
チビチリガマは「死」を選んだ。
中国戦線経験者だった元兵士や元従軍看護婦の「捕虜になれば、死ぬより恐ろしい目にあう」という判断を信じた。
シムクガマの生存者は「紙一重だった、自分たちが死んでもおかしくなかった」と振り返っている。
生存者の中には、自分だけが生き残ってしまったことを悔やみ、何度も自殺を試みた人達がいる。
比嘉さん達は、戦後、亡くなるまで、シムクガマで起きたことを殆ど話さなかった。
同じ集落のチビチリガマで、多くの村民が亡くなったことをとても気にしていたそうだ。
・・・何もかもが、やりきれない。
現代に生きる私が、結果論で「こうすれば良かったのに」なんて言えない。
その場にいたら、死へ誘導する集団に反論できただろうか?
とても自信がない。
軍国主義教育という、戦前の間違った教育があった。
皇民化教育は、住民にも「命がけで国を守れ」という考えを叩き込んだ。
日本の統治内に入ったばかりだった沖縄県民は、日本人として認めてもらおうと、忠誠心を示そうとした。
チビチリガマの犠牲者の半数は、子供だ。
いつも立場の弱い者が犠牲になる。
どうしたらこんな悲劇を終わらせることができるのかな。
答えが出るかわからないけど、考えることを放棄しないって決めた。
「仕方ない」って思ったらずっとそのポジションだ、私は何か変えてみたい。
比嘉さん達は、米軍が上陸する前から、
「あんな大きな国に戦争を仕掛けてどうするんだ」と、親しい人に話していたらしい。
・教育
・情報(知識を更新すること)
・対話
現時点で、私は、この3つが大切だと思った。
今日も良い1日を。