火垂るの墓と、自分の心の闇
みなさん、こんにちは。
さて、このブログは鬱克服がテーマで、何かしら希望に繋がる発見をメモして行くつもりだった。
でも昨日から、良いことが何も書けなくなった。
自分の人生を良くしたかったが、「良い」が何なのか、わからなくなった。
生きることは苦しい。
今日は、映画「火垂るの墓」についてメモしたい。
映画「火垂るの墓」
兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、
その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。
映画の中で、死んだ清太と節子は幽霊になる。
死んでは幽霊になり、また時間が戻り、死んでは幽霊になるという、永遠のループに巻き込まれている。
高畑勲監督は、死んだ後も同じ苦しい時間を繰り返すしかない、2人の幽霊を指して
「これを不幸といわずして、なにが不幸かということになる」
「死によって達成されるものはなにもない」
と語っている。
また高畑監督は
「反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」
「なぜなら為政者が次の戦争を始める時は“そういう目に遭わないために戦争をするのだ”と言うに決まっているからです」
とも語っている。
以前の記事で、「火垂るの墓」について
『人間関係が煩わしくても、社会的な繋がりから離れたら、人は生きていけない』
・・・と書いた。
lavandura.hatenablog.com
為政者、庇護者、親。
「社会のためになるから」という口実。
「愛情から、説教しているんだ」という口実。
その口実は、自分のためではないか?
弱い立場の人間を、
巧妙に作った、絶対に勝てないゲームに閉じ込め、苛め、
自分を満たしていないか?
ブログを書き始め、心理学やシャンバラの知識に照らし合わせながら、自分の心の闇に向き合ってきた。
鬱の克服から再就職まで、人生が良くなっていく過程を書くつもりだった。
でも、予想外のことが起きた。
今まで求めていた「愛、信頼、希望」といったものが疎ましくなった。
元から自分が嫌いだったが、この世界も嫌いになった。
このままではブログタイトルが「チャッピーのダークサイド」になってしまう。
今日も良い1日を。